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「それはおまえが悪い……」
 ふああ、と間抜けなほど大口を開けての大あくび。

 兄にしては珍しい。二十四時間の宿直明けだから無理もないけれど、そんなことは今日のアレックスには1インチだって関係がないことだ。
 弟の理論を目一杯発揮しての屁理屈だが、遠慮はない。
「朝の四時とか無理、起きられねえもん」
 アレックスは寝起きというか、自分が大騒ぎをして起こしてしまった兄のベッドの縁に膝を乗せ、大きく揺らす。
 起きろよ、聞けよ、なあってば。
 の、合図だ。
「約束したのは……おまえだろう……」
 アレックスは今日の朝四時に起きていつもの遊び仲間と外洋までトローリングに出かける予定だった。どこかで飲んでいる時に誰かが思いついて、行こう行こうという話になった。
 楽しいだとか、好きか嫌いだとか考えもしなかった。全部ノリだ。いつもそんな感じで物事はなあなあで決まっていく。約束をしっかり守ろうという意識もない。
 だからアラームをかけるのを忘れてしまい、起きた時にはすっかり夜も明けてしまっていた、というわけだ。
 着信履歴と、置いてくぞのボイスメールに八つ当たりしても、悪いのは百パーセント、寝坊した自分だ。それはわかっている。だから今、何が気に入らないかと言えば、この兄、ストーンの態度だったりする。
「そうだけど……」
 最近のストーンはいつもこうだ。こちらが不平不満を言っても、面白くないことが続きふてくされていても、
「トローリングなんて……本当は興味ないんだろう?」
 そんな風に穏やかに諭すように言って、頭を撫でたり抱きしめたりしてごまかそうとするのだ。
 今日もそうだ。半分目が閉じたような状態ながら、アレックスの腕を引き、そのままベッドに連れ込んだ。しかし、抱き枕よろしく腕に絡め取られても不機嫌が収まるわけもない。
「それに、まだ早い……」
 よしよし、と子供にするように背中を撫でられても、額にキスをされても同じことだ。まだ「たるんでる!」だとか「いい加減な奴だ」と叱られた方が納得できるし、反発もしやすく気が楽だ。
 しかし、ここ最近ずいぶんと「お説教」が減っている気がする。
 兄とキスをするようになって、それからその先のあれこれが日常的になって変わったのはここだ。
 何でも、こうやって抱きしめてキスをすれば機嫌が直るだろう、落ち着くだろうと「お手軽」に思われている。
 説教もそうだが、それ以外でも、ストーンはもっとしっかりと自分のことを考えていて、迷ってくれていたように思う。それにどこかいつも必死で、その目は射抜くようにこちらを見ていた。遠くから、だったけれど。
「ストーンはすぐそれだ」
 つまり、はこうだ。
「何だ……?」
 適当に扱いやがって。
「釣った魚に餌をやらない、ネイビーのクソ野郎供の典型だな」
 腕の中から逃れるように、体を起こしたアレックスはこれ見よがしに頬を膨らませて眉間に皺を寄せる。
 初めてキスした時に、彼は何と言ったか。
 というか、もうキスでもしないと壊れちゃうかもしれないな?っていうぐらい毎日、気付くと苦しそうな顔をしていたから、促したのはアレックスの方だった。
 したいことをすればいいじゃん。
 俺は構わない。
 そんな風に、さも知ったような口をきいて焚きつけた。考えているよりずっと真剣な話であり、感情であると気付いたのは骨が折れるんじゃないかと思えるほど強く抱きしめられた時だった。
 以来、そこのところだけは茶化してしまわないようには心がけていた。上手く行っているかどうかは別として、故意に傷付けようとは思っていない。
「アレックス……」
 ストーンの少し困ったような声に恨みがましい表情になってしまったと気付き、もういいとばかりにベッドから降りた。機嫌をとって欲しいというのも、おかしな話だ。ちやほやされたいわけでもない。
 別段、予定がなくなったところで困らないのが、ここハワイでの暮らしだ。今は何回目かの休職中で、暇は暇だったが、サーフィンに出かけてもいいし、スケートボードを楽しむ連中に混ぜてもらうのもいい。
 ピザを頼んで溜まっていた録画を見るのもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら寝室を出ようとしたその時、目の前が少し暗くなった気がして顔を上げる。
 そこには後ろからこちらの顔を覗き込むストーンがいた。眠そうではあったが、ベッドからは出てくれたようだ。
「ちょっと待ってろ……」
 ふああ、とあくびをもう一度。
 それから、アレックスの長く伸びた髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「やめろよ、それ」
「誰が」
 くすっと笑ったストーンは(この余裕がどうにも気に入らないのだ)、そのままベランダに出て電話をかけ始めた。アレックスはその様子をしばらく膨れつらのまま睨みつけていたが、話が長くなりそうだったので、ぐっと伸びをしてふうっと大きく息をつくと仕方なしにキッチンへと向かった。
 まあ、とりあえず。
 朝飯ぐらいは作ってやってもいいかな、と思って。
 そんなことを小さく呟きながら。

 ストーンは数件の電話をかけた後、ヨットを借りたと言った。目を大きく見開いたアレックスに、肩をすくめた彼は「釣りはしないぞ」と言って、小さく笑う。
 なぜかそれが少し寂しげに見えたので、アレックスは小さく首をかしげた。しかし、何か言葉をかけるには確信が持てなかったので黙っておいた。
 朝食を済ませてすぐに出ることになったのだが、やはりストーンはいつもと様子が違うようで、言葉が少なかった。説教をする気力もないのか、ただ眠いだけなのかはわからないが、それでも「嫌そう」には見えなかったので、アレックスは特段何も声をかけることはなかった。
 というよりも、かける言葉が見つからなかった。
 途中に寄ったグローサリーでビールをダースで買って、ハーバーのヨットハウスでランチボックスを受け取り、借り物だというずいぶん立派なヨットに乗り込んでも、思っていたよりもずっとゴージャスなヨットに対しての感想ぐらいしか、言うことはなかった。
 そして、ちらりとバスケットを覗いて見ると普段はまず食べないだろうな?と思う小洒落た食べ物が詰まっていた。サンドイッチにフランスパンを使うことはまずない。具だっていつもハムとチーズ、ピーナッツバター&ジェリーと決まっている。野菜が入ってる、とストーンに声をかけると、そうだな、と笑った。
 どうにも会話が、続かない。そのことをやや、不満に感じながらアレックスは出航の準備をてきぱきと進める兄を横目に、ぐるりを見回した。どのヨットもボートもクルーザーもピカピカに磨き上げられ、陽光の下で輝いている。
 エリート軍人ではあるが、それほど高給取りというイメージのないストーンだったが(自分のことはしっかり棚上げしておく)、人脈はかなりのものがあるらしい。
 こんな立派なハーバーに出入りしたことは一度もなかった。
「なあ、ストーン?」
「何だ?」
「誰に借りたの?」
「別に誰でもいいだろう。仕事で知った人間だ」
 確かに、誰と知ったところで何をするわけでもないけれど、やはりどうにも面白くない。
「つまんねえの」
 考えもなしに口をついた言葉にストーンは何も反応しなかった。怒るでもなく、呆れるでも諦めるでもなく「そうか」と相槌を打っただけで、黙々と準備を進めるだけだった。
 アレックスはその程度で罪悪感を覚えるほど殊勝でもなかったが、それでも次に何を話しかければいいのか、わからなくなってしまった。
 そのまま黙って操舵室に向かったストーンの背中をじっと見つめて、ばか、と小さく呟くしかなかった。

 ヨットは沖に出てしばらくしたところで、止まった。波もなく、風もそよ風くらいでサーフィンには向かない、そんな状態だった。
 ふてくされたままデッキ後方、たくさんのクッションが置かれたソファに転がっていたアレックスだったが、ストーンが顔を見せたので体を起こした。
 ここらは釣りのスポットでもないようで、辺りを見回しても他の船を肉眼では見ることができない。
「飲むか?」
「泳いでからにする、ここ鮫いる?」
「さあな」
 ストーンは自分のことをポーカーフェイスだと思っているかもしれないが、大きな間違いだ。
 鮫がいるようなところなら、絶対に泳ぐなと言って止めるからだ。今まで山ほどの禁止事項を言い渡されたことがあるアレックスの勘はまず間違い無い。
 泳ぐと言い出すだろうから、この海域に連れてきてくれたのだろう。そういうのを、もっとこれ見よがしに主張すればいいのに、と心底思う。デートだとか、甘やかしだとかに根本的に向いていないのだ、この堅物将校殿は。
 アレックスが得意だとかそういうわけでもないけれど、人並みのデートがどんなものぐらいかは知っている。立派なヨットとホテルで食べるような豪華なランチボックス(本来ならシャンパンが必要なくらいだ)(飲みつけてないから飲みたいとも思わないが)、それを支度したならやることは一つだ。
 キスをするとか。
 ハグをするとか、色々あるだろうのに。
 ストーンはそうしない。
 できない、のかどうなのか。
「ストーンは?」
「俺はいい」
「あっそ」
 ストーンはそのどれも選ばず、船室へ続くドアに背を預けてビールを一口飲んだだけだ。そこには起き抜けに見せていた余裕はどこにもない。また、キスをする前に戻ってしまったようだ。
 アレックスはそれでもいちいちご機嫌伺いする気にもなれず、ふん、と鼻を鳴らすとハーフパンツと着てたTシャツを脱ぎ捨てて、そのまま放物線を描いて海へと飛び込んだ。
 一度深く沈んで、それからヨットから離れたところまで一気に泳いでから顔を出す。髪をかきあげ、足元に寄ってきた魚にちょっかいを出しながら、浅く潜ったり、浮上したりを繰り返しながらひとしきり、泳ぎを楽しむ。ビーチ近くと違って水温はややひんやりしている。しかし、たっぷりの日差しを受けて泳ぐにはちょうど良いぐらいだ。
 海底までは遠く、底が見えるほどではなかったが澄んだ水に身をまかせるのは楽しかった。アレックスはものぐさではあるけれど、体を動かすのは大好きだ。
 しばらくそうして楽しんだ後、背泳ぎをしながらヨットの方を伺うと、ストーンがこちらを見て、じっと佇んでいるのがわかった。
 何かの置物のようだ。こういう時に手の一つ振ることもしない。
 興味がないなら、寝不足を解消するために昼寝でもしていればいい。しかし、それもできない。
 朝の、あれは。
 拒んだわけじゃない。
 どうにもぎくしゃくしてしまっているような気がする今の状況の原因はあれしか考えられない。ただ、腕から抜け出た、それだけだ。
 もしあれを拒絶と捉えたのならば、態度の変化は理解できる。
 兄は、ひどく自信がないのだろう。
 パールハーバーで一番のハンサムだと評判なのに。
「……馬鹿……」
 しかしだ。
 ただ、じっと見るだけなら誰にだってできる。
 アレックスはそう思って、遠くの兄をきろりと睨むと、大きく息を吸い込んで、そのまま後ろに反り返るような格好をして、足を上げると、そのまま深く潜っていった。
 十メートルぐらいは、特に苦もなく潜れる。今日みたいに凪いだ海ならもう少し深くまで行けるかもしれない。しかし、それが目的ではないので小魚たちと一緒にそのまま、身を任せて長く潜ることを選んだ。
 10秒、20秒。
 40秒。
 60秒。
 少し苦しくなり、顔をしかめたところで、強く腕を掴まれた。ごぼっと塊のような息を吐くのと、水面に引き上げられるのは、ほんの数秒の出来事だった。
「はっ……はっ……っ」
 息を整えるまでは何も言葉が出て来ない。腕を掴んだのはもちろんストーンだ。
「……っ」
 服のまま、沖に飛び込むなんて。
 何考えてるんだよ。
「……訓練しているから大丈夫だ」
「何が大丈夫なんだよ、馬鹿!」
 アレックスは思わず目の前の兄の額に頭突きをする。
「いってーなー、もう!」
「おまえがやったんだろ……」
 額を抑えながらも呆れた顔になったストーンにアレックスは大きくため息をつくと、
「……朝の態度はよくなかったかもしれねえけどさ」
 ストーンはばつが悪そうに目を伏せるので、下から覗き込むようにして、頬に一つ、キスをくれてやる。
 いつも、一日の始めのキスまでに時間がかかる。良いのか、許されるのかを確かめるための時間だ。
 そうか、それがなくなってきたところだったんだ。ようやく、安心してくれた。
 それだけだったのだ。
 それを、こんな風にハグも仕掛けられないように後戻りさせてしまったのは、自分だ。
「……俺はただ愚痴を言いたかっただけだし」
「知ってる」
 俺がうまくやれなかった、という言葉を言わせたくなくて、今度は唇にキスだ。
 アレックスとしては、あまり自分からというのは避けていたことでもあるのだが、今日のところはヨットに免じて、というやつだ。
「……にやけた顔だな」
 たまにはいいけど、と言って頬のてっぺんを赤くしたアレックスはストーンから離れてヨットに向けて泳ぎだした。すぐ後ろを、ジーンズを履いたままとは思えないスムーズさでついてくるストーンを肩口に振り返り、もう二度とするなよ、とだけ告げた
 返事はなかったが、半分はこちらのせいでもある。
 小言はこのぐらいにしておくことにした。滅多にない機会だから、もう少しやり込めてやっても良かったけれど。
 まあ、今日必要なのはさ。
 たぶん、ハグとキスだ。

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ずっと書きたかった海の中のストアレ!
やっぱりハワイだしね…というイメージで。
もっとちゃっちいボートでゆらゆら揺れながらHってのも次は書きたいです……!というか、それを書くつもりだったのに導入間違えてこんな感じになったので、またリベンジしますw

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