Winter Vacation

「なあ、アレックス」
「ホッパー」
「……ホッパー」

 アレックスは最後の一枚になったピザにかぶりつくと、顎を大きく動かしながら、つまらなそうに、ちらり、と兄を見た。手近にあったペーパーナプキンで口元を拭い、それから下唇を噛んだ。
 肉厚の唇に白い歯が食い込む様子に、ストーンは話しかけておきながら、目を逸らすことになってしまう。
 ここのところずっと不機嫌な弟だが、今日はまた一段と不機嫌だ。ストーンはわからないようにため息をつき、新しいビールを冷蔵庫から二本取り出すと、栓を抜いてテーブルの上に置いた。
 アレックスは当然のようにそれに手を伸ばし、ごくごく喉を鳴らして飲み干したが、ストーンは一口だけ飲んでからテーブルに戻すのが精一杯だった。
 二度目のため息をこらえるために、口にしただけだ。
 今日は、当直明け、三日ぶりに顔を合わせるというのに、アレックスはただいまのハグを嫌がり、その先のキスからも顔を背け、足を踏んで拒んだ。
 確かに普段からそういうべたべたしたことをしてきたわけではなかったが、疲れていたのでつい冷静な判断より本能が勝ってしまったのだ。これは自分の失敗だと思っている。
 ただ、傷ついたという顔をしてしまうのが癪で、ストーンは肩をすくめてやり過ごした。それがいけなかったのだろうか?
 それとも単純にこの「アブノーマル」な関係に嫌気が差したのか。
 冷静に考えれば、後者が有力だ。
 無理矢理迫ったわけではない、とは思う。関係も、良好だった、はずだ。
 しかし、どうしても家を空けることの多い軍人の自分と、自由でなければ生きている意味がない、と気楽な生き方をしているように見える弟の間には、明らかな溝があると考えた方が妥当だ。
 自分はその唇にキスをして、生命力と若さにはち切れんばかりに張った肌に触れたいと思っていながら、弟の素行や生き方に口を出し、煙たがられる兄としての顔を捨てられないでいる。
 両方は難しい、と誰かに相談したら窘められるのだろう。
 とても、誰かに相談できる話ではないのだけれど。
「……その、ホッパー」
 姓で呼ばせようとするのも不機嫌のわかりやすいアピールだ。そうでなくてもここのところ顔を合わすたびにむくれた表情を見せるので、ストーンの方もその明確な原因がわからないせいで眉間に皺を寄せることになり、共通の話題もそうない中で沈黙が多くなった。正直、居心地はよくない。
 お互い様だとは思っていても、食事を一緒に取る回数はなぜか増えているので、もどかしさばかりが募るのだ。
 これならば説教を煙たがられる方がずっとましだ。
「……来週のアナポリス行き、おまえも来ないか?」
 だから。
 ストーンはこの事態を打開しようと、一つの提案をしてみることにした。
 ちょうど、海軍士官学校での講演会に呼ばれていたことを思い出し、あまり忙しいようには見えない弟に本土の冬を見せてやるのもいいだろう、という安易かもしれない考えで思いついたアイデアだった。
 断られることも覚悟の上、だったが、
「いいけど」
 アレックスは膨れ面のまま、即答した。
「……え?」
 無視されることも想定しての提案だったので、ストーンは思わず無防備で間抜けな反応を示す。みるみるうちにアレックスの表情は不機嫌を通り越して、怒りのそれになった。
 ガン、と大きな音を立てて蹴り飛ばされた机の上でビール瓶とケチャップのボトルが揺らいだ。
「はあ? 何だよそれ!」
 剣呑な表情と唸り声が向けられて、ストーンは目を逸らしながら、言い訳を探すが、見つからない。すまない、という生真面目な謝罪に今度は爪先で脛を蹴られる。
「馬鹿じゃねえの」
 アレックスの手がストーンの頬の上で跳ねた。
 ぺちん、という音に痛みは伴わない。少し、手汗の濡れた感触が頬に残っただけだ。
「……ホッパー」
 掠れた声に弟は呆れるだろうか? ストーンには何が正しくて、どうしたらこのもどかしさと、焦りのような感覚を払拭できるのかわからなかった。
「アレックスでいい」
 気まぐれに前言を撤退し、大きな目をくるりとひらめかせて口の端で笑う弟に劣情を抱いてしまう自分が悪いのだろうとも思う。
 もしかすると、結局は弟のすべてを思う通りにコントロールしたいという、卑怯者なのかもしれない。
 腕を掴む力はいつだって強くなってしまう。
 そのことにきっとアレックスは気がついているはずだ。説教とお仕置きだけがその理由ではないことに。
「アレックス」
 それでも、じっとまっすぐにこちらを見てくれたことに安堵して、顔を近づけ、唇を重ねてしまうこらえ性のなさに、自己嫌悪に胸焼けしそうだ。
 ただ、今度は拒まれなかった。
 呼びかけに応えるようにうっすらと開かれた唇に、ストーンは持て余した感情をそうするように、舌をねじ込んだ。熱く、濡れた舌はジャンクな夕食の後とは思えないぐらい、甘い。
 そう思った。

02 

 ストーンは自分にとっては少し早く生まれただけの男(つまりは兄だ)だが、世間的にはアメリカ海軍の誇る未来の艦長、将来有望なエリート、と認識されている。
 口に出して言ってやったことも、態度に出したこともないけれど、それについてはアレックスとしても異論はない。経歴を一番傍で見聞きしてきたんだから、当然だけれど。
 それから、パールハーバーで一番のハンサム、そんな風に言われているのも知っている。当のストーンはワイキキのメインストリートを歩くだけで人目をひいているのに、ほとんど気づいていないのだ。声をかけられても道端なら「何かお困りですか?」なんてとぼけたことを言い出すほどの、堅物だったりする。
 そうでもなければ、しかつめらしい顔して偉そうに胸を張る艦長になどなれないのかもしれないが。
 まあ、そんなことどうでもよくて。
「……えっと」
 今は少し、ピンチのようだ。
 アレックスではなくて、ストーンが。
「ストーン、あのさ……?」
 今まで、こんなストーンは見たことがなかった。
 これが陸に上がった魚なのかな? なんていう冗談を口にするのも申し訳ないような気がしてくる(かなり無遠慮なところがあるという自覚のある自分でも)ぐらいの絶望具合いなのだ。
 二日間に渡った、海軍士官学校での式典、スピーチ、模範指導などのあれこれを終えたストーンがアレックスの待つホテルに戻ってきたのは、夕方の十八時を過ぎた頃だった。
 レンタカーを借りて戻る予定、にしていたのは十五時だ。
 生まれて初めての遅刻か? なんてからかってやるつもりでいたのだ。
 確かに知っている人間もいない、ホテル滞在の経験もほとんどない、落ち着かない時間を過ごしてはいたが、そう退屈はしなかった。
 ストーンの支払いだと思って遠慮なくルームサービスで食べ物を頼んでいたものだから。
 それに何より、だ。
 アレックスにとって手で触れる範囲での雪を見たのは初めてだったから。遠目に冬のマウナ・ケア山が白くなっているのを見て、あれが雪なんだな、と認識したことがあるぐらいで。
 想像していたよりもずっと強く降る雪に、きれいだとか、そういうまともな感想を抱く前に、自棄になった誰かがゴミを撒いているみたいだ、なんて思ってしまった。
 あっという間にバルコニーは雪で埋まり、窓の外に見える景色も白くけぶっていくのを見ているだけで、時間は過ぎていった。
 外を歩いてみたいと思ったが、ハワイから持ってきた厚手のブルゾン程度ではしのげない寒さが窓越しにも伝わってきていた。ストーンが戻ったらその辺のことも相談しよう、なんて考えていたのだ。
 しかし。
「……失敗だ……」
 残念ながら、と言っても彼のプライドを傷付けてしまうのだろう。
 結局のところ、ストーンはレンタカーを借りることができず、タクシーを三回乗り継いでもホテルにたどり着くことができなかった。アナポリスから、車で二時間ほどのところにあるスキーリゾートに行く計画を立てていたストーンは軍の関係者の申し出を断っていたので、自力で歩いてホテルに向かうしかなかったのだ。
 長身をこれでもかと、雪を含んだ風に煽られながら歩いている間にメリーランド州には非常事態宣言が出されてしまった。道路は封鎖、店のほとんどにシャッターが下ろされた。
 アレックスが部屋に迎え入れた頃には、ゾンビだってもう少し元気が良いんじゃないか? と思えるほどの、生気のなさだった。三十分ほどバスルームにこもって出てきた今も、表情は死んでいて、こんなつもりはなかった、というようにうなだれている。
 失敗は失敗かもしれないけれど。
 全部雪のせいだ。
 そう言ってやれば、いいのだろうというのはわかっている。
「ストーンのせいじゃないだろ?」
 まだ、全然手が冷たいじゃないか。
 そう言ってにっこり微笑みかければ、きっと安心してくれる。
 何なら、キスをしたっていい。
 したくないわけじゃないんだから。
「……だとしても」
 軍人思考のせいか、責任を他者に押しつけることができないストーンは首を横に振って、すまなかった、と続けた。
「……謝るなよ、そんなの聞きたくない」
 アレックスはストーンを慰めることが上手くできないことに苛立ちながら、吐き捨てるように言って、それから窓の方へと歩いていく。やけに外が明るいと思ったが、それが雪の白さのせいだとわかって、少し目を見開いた。
 こんなのはじめて。
 男が一番喜ぶ台詞だ、おそらく。
 若いアレックスにはピンと来なかったが、話には聞いたことがある。今こそそれを口にする時なのだろうか?
 きっとそうだ。
 しかし、
「兄貴が駄目男でも、別に……俺は……」
 気にならないし、と唇を尖らせて小さな声で言うのが、せいぜいだった。ちらり、と肩越しに振り返りソファに浅く腰かけ頭を抱えるような格好になっているストーンの様子を伺う。
 ゆるゆると、頭を上げるのがわかった。
 壊れたオモチャのようにぎくしゃくした動きに、さすがに「不機嫌モード」も限界だ。
「ははは! ほんと、駄目男だっていいんだぜ?」
 ウケる! そう言って声を立てて笑いながらアレックスは呆然とした顔でこちらを見るストーンの額を指で弾いた。結構痛みを感じるぐらいには強くしたのに、微動だにしないので、それにもまた吹き出してしまう。
「怒ってないのか……?」
 ずっと機嫌も悪かった。
 ストーンの掠れた声は、アレックスのそれより少し高いところに響く。それが、実はお気に入りだったりする。だから説教がそれに聞こえてこないのかもしれない。ストーンの意図には反してしまっているので、口にしたことはないけれど。
「良い子にしてたら、ほっとかれそうで」
 ただ、今日のストーンはあまりにも酷く落ち込んでいるので、言うつもりはなかった本音を一つだけ、教えてやることにした。
 それが、不機嫌の理由だ。
 キスをするようになってから、体温が高く感じられるようになって落ち着かなかった、なんてことまでは言えないけれど。
 そういうのは柄じゃない。
 今まで通り、変わらないようにしなくてはいけない、と頑なになっていたせいであの通り、褒められた態度ではなかった。
 キスを避けたのも、望んでいることを知られたくなかったからだ。
 そんなのは、アレックス・ホッパーじゃない。
 そうストーンに思われたくなかったのだ。
「……まさか……」
 俺は、とストーンの声がまた、掠れる。
「俺はずっと、おまえを愛しているんだ……」
 いつから、とは聞けなかった。たぶん、ストーンも答える気はないのだろう。クレバーで、ハンサム、完璧な兄は、兄弟としての思い出を(それこそ、良いものも悪いものもたくさんだ)大切に守ってくれるようだ。
 それを、アレックスも望んだ。
 でも、今は。
 もう、関係の変わった二人だ。
「……じゃあ、もう落ち込むなよ……」
 外にも出られない、緊急の呼び出しもない、滅多にない二人きりの時間だということにそろそろ気付いた方がいい。
「……そうだな」
 アレックスはまだ少し湿っているストーンの髪に指を入れて、知ってたか? とストーンの顔を覗き込むようにして、尋ねる。
 何が? と眉を上げるストーンにニヤリと悪戯っ子の表情で笑う。
「ここのベッド、すっごいデカいんだ」
 昨晩は一人占めにしたけれどあまりの大きさに、普段カウチで寝ているアレックスは結局端の方で丸まった状態で目を覚ました。
 でも、二人なら。
「……」
「そうこなくっちゃ」
 ごくり、と喉を鳴らしたストーンにアレックスは笑って、もう一度額を弾いた。
「いい加減にしろ」
 と、声だけでたしなめられたが、本来の「できる男」は行動が早い。立ち上がるとアレックスのけして軽くはない体をしっかりと抱え、ベッドルームへと向かうことにしたようだ。
 アレックスはそうこなくっちゃ、と内心で繰り返し、兄には見せられないぐらい、緩んだだらしのない顔で、笑った。
 

03 

 いつもの夜と何が違うか。
「……くそっ……、兄貴ぃ……!」
 ストーンには上手く説明はできなかった。ただ、いつだって窓を開け放している環境から声を出してのセックスにあまり縁はなかった。一緒に寝る日が増えてからは寝室にエアコンを設置しようという話は何度かしたが、結局ぬるつく汗とともに肌を合わせる感覚が悪くないものだったので、話は流れてしまっていた。
 今夜は汗をかいても、すぐに引いてしまう。セントラルヒーティングでけして寒い、ということはなかったが、それでもハワイでのそれとはまるで体感が違うのだ。
「言葉が悪いぞ……」
 は、は、と短い息を吐き出しながら、ストーンはそう言って片頬を上げて笑った。
「しつこい……!」
 仰向けになったアレックスは、もう無理、と何度となく訴えていた。それでも、ストーンは行為を止めることは出来なかった。一度、体を離しかけた時に(息継ぎをしたようなものだ)、すがるような目でアレックスがこちらを見たから「無理」を言葉のまま聞き入れるのは止めておくことにしたのだ。
 少なくとも、今夜は。
「あんなに、よろよろしてたのに……!」
 海軍だ、雪中行軍の経験はない。自分がアナポリスにいた時にもこんな大雪になったことはなかった。思う通りにいかなかった苛立ちと、あまりの頼りなさに兄としての信頼をも失ってしまうのではないかという恐れに、頭がどうにかなりそうなほど動揺していたのは確かだ。
 寒さよりも、そちらの方がずっと辛くて、手が氷のように冷たくなっていることにも気づけなかった。
「あ、ああ……っ」
 でも、今は。
 アレックスの両手を上から押さえつけるようにして握りこんだ手は、末端まで血が巡り、熱いくらいになっている。無理、と言いながらアレックスの両脚はストーンの腰の後ろに回り、時折鞭打つように腰を叩き、そのたびに共犯者同士のように目を合わせ、にやりと笑う。
 その繰り返しに、体温は上がり、声を我慢するなどという理性は剥ぎ取られていく。
 何度も、何度も突き上げ、そのたびにアレックスの体は跳ね、ハスキーな声に甘みと苦みが混ざってくるのがわかった。
 ぞくぞくと背筋に走るのは、震えではない。高揚感だ。
 このすべてぶつけていいだろうか、と喉が鳴る。
「……んあっ、ストーン……、動く、な……!」
 すっかり馴染んだ部分に埋め込んだペニスは、到底収まりそうにないのだ。アレックスのタンクは空になりつつあるようだけれど。
「動かなくていいのか?」
 ずっぷりと奥まで嵌めたところで、小刻みに内壁をこするように動いていたら、アレックスから抗議の声が上がった。
 しかし、耳元で念を押すように囁くと首を横に振る。
 素直でないところが、かわいくてたまらないし、素直過ぎると心配になり、あれこれ口出ししたくなってしまうのだ。
 お互い、承知の上なら構わないだろうとアレックスは思っているようだ。
「……声を聞かせてくれ」
「……やだね……」
 本当に、素直ではない。
 ストーンはそんなアレックスを軽く睨むようにして、視線がぴたりと合ったところで、ぎゅっと両手に力をこめた。そして、大きなストロークで突き上げる。
「ああー……っ! あ、あ……! ひぁ……っ!」
 いつもシーツを噛んだり、歯を食いしばって漏らさないようにしていた声が、こんなにも甘く耳を震わせるなんて、知らなかった。
 ホテルを取るのが癖になってしまいそうだ、と息混じりの声でこぼすとアレックスは「調子に乗るなよ」と喉を鳴らし、踵の鞭打ちをくれた。
 じゃじゃ馬を乗りこなすのも大変だな、と言い返しながら奥まで突き入れると、喉を逸らしてその刺激をやり過ごそうとする。
「あ……あぁ……っ、きつい……」
 肉筒が震え、貪欲に引き入れようと蠢いていることに、弟はきっと気付いていない。クソ兄貴のせいで、体がおかしくなっている、ぐらいには思っているかもしれない。
「……もう少し、我慢してくれ」
 ストーンは耳元でそう囁くと、我慢なんかしてない、とうわごとのような声が返ってくる。
 最高だな、と素直な言葉を漏らし、ストーンはアレックスの唇に自分のそれを、重ねた。
 それは、セックスの最中にするものとしては、優しすぎるキスだ。
「……愛してるぞ」
 大事なことを、伝えるためのキスだ。
 アレックスはそれに小さく頷くともう一度しっかりと目を合わせて、俺もだよ、と続けてくれた。
 それから、我慢なんかしてない。
 そう、もう一度繰り返してくれた。
「明日もどこにも行けそうにないしな」
 ストーンのその言い分にも、同意をくれた。
 それなら、もう少しだけ。
 声を聞かせてもらおうか。できれば、悪態は控えめにして欲しい。
 今日はずいぶんとたくさんの失敗をしているから、気が滅入っているんだ。
 そんなジョークを言おうとして、口を噤んだストーンにアレックスはわかっている、とでも言うように眉をひょいと上げて見せた。
 それが、合図になるとも知らずに。
 とてもかわいい顔をしてくれたのだ。

04

 夏の眩しさと、冬の眩しさがこんなにも違うとは。
 アレックスはぼんやりとソファに伏した格好で目を細める。自信を失った男が立ち直った時の勢いとしつこさを身をもって知ったのだけれど、そういうことは経験がないのでアレックスは知らなかった。
 窓辺で人気のない外の景色をコーヒーの入ったマグを片手に眺めていたストーンはゆっくりこちらを振り返り、見たことがないぐらいの穏やかな表情で笑った。
 エリート軍人には、エリート軍人の苦労があるのだろう。
 でもそれを勝手に推察して、優しく寄り添うのは自分のやり方ではない。アレックスはもう迷うことはないぞ、と少し開き直るような気持ちで、顔を上げ、片目をつむる。
「ストーン、あのさあ」
 何だ、というように首をかしげたストーンだったが、長い夜のせいでいっそうハスキーになってしまった声に顔をしかめると、こちらに近づいてきてくれた。
 どうした?
 優しい声に、アレックスはにやっと笑い、
「そういえば、また仕事クビになってさ……」
 と、ここのところしばらく黙っていた事を告白した。不機嫌の理由の一部、でもあったかもしれない。
「いてぇ!」
 しかし、優しい微笑みのストーンはここで打ち止め、だったようだ。頭にゲンコツが落とされて、
「またか!」
 と、お決まりのお説教がはじまった。
「今度こそは絶対に半年は続ける、そう言ったのはおまえだぞ? 何があった!」
 ただ、ストーンの説教は「何をした」ではなく「何があった」から始まるのだ。そのことをアレックスはよく知っていて、結果的に8割方は自分に原因があるのに、変わらないこの聞き方が、好きだった。
「……笑うところじゃないだろう」
「笑うところだろ?」
 飛行機の中で聞くからさ、と言ってアレックスはゆっくりと目を閉じた。キスが来るなら、このまま受け入れるし、もう一度ゲンコツが降ってくるのなら取っ組み合いの喧嘩となる。
 さあ、どうする?
「……ふふ……」
 ストーンが選んだのはキスだった。
 良い選択だな、と内心で拍手を送りながら、少ししつこい、優しいキスを受け入れることにした。
 スキーリゾートに無事に到着していたとしても、きっとスキーをすることはなかったろうな、と思いながら。

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