「……」
言葉を失う、というのはこういうことなんだな。
テイラーは目の前にいる恋人の変わりように言葉通りの状態になり、何か言いかけたままになった口を閉じることも忘れていた。その変貌っぷりはフリーザーから出したばかりのカチカチのアイスクリームが今までの恋人、だとすると今はレンジにかけてどろどろに溶かしてしまった別の何かだ。
「本当にかわいくて、かわいくて、かわいくて……!」
こんな声も聞いたことがない。元々低くはない声質ではないにしても、これは本当に酷い。もう猫撫で声というレベルではなく甘ったるい声で同じことばかりをくり返すのだ。
つまりは、こうだ。
今撮影中の映画で共演している子役のオナタ・アプリール嬢が天使か何かの生まれ変わりのように聡明で、無邪気で、かわいくて、透明感があって、甘えん坊で、でも仕事もしっかりこなして、天使の生まれ変わりなんかじゃない天使なんだ!というようなことをずっと口にしながら、ごろんごろんと床を転がっている、という状態だ。
彼のモバイルのカメラロールには彼女の写真と彼女が撮った撮影現場の写真が山ほどあってテイラーはもうすでにその一枚ずつの説明を3ターンくり返されていた。
確かに、彼、アレクサンダー・スカルスガルドの言う通り、写真を見るだけでも彼女の愛らしさと非凡さは十分に伝わってくる。それにテイラー自身も子供は大好きだ。なかなか子役と共演する機会は得られないが、それでもいつかそんな機会があればこんなふうにデレデレになってしまうのだろうとも思う。
いや、どうかな。
これは少し、どうかしていると思う。
「ほら、ほら、これ!」
この写真だけど、と見せてくれたのは少女がぬいぐるみを抱きしめている写真だ。髪にたくさんのリボンが編み込まれていて、彼女もそれが気に入っているのか次の写真ではその部分を指差していた。
「俺が編んであげたんだぞ?なあ、上手いもんだろう?」
テイラーは嬉しそうで、かつ、自慢げなアレクサンダーに二度ほど頷いて、それから小さく、わからないようにため息をついた。ただ、たまたま時間が合ったから尋ねてはみたが完全にタイミングが悪かったようだ。嫉妬だとか、そういう気持ちはなかったが、ここにいる意味がよくわからなくなってしまっていたのだ。ただひたすら話を聞いて欲しいのならば、聞き上手な方がいいだろうし、同意して欲しいなら彼女のことをよく知る、今の共演者が良いだろう。
テイラーの出来ることと言えば、
「そうだな」
「かわいいな、うん」
「ああ、俺もそう思う」
「へえ、そんなことがあったのか」
を、他の相づちとともにくり返すことだけだ。そのことにアレクサンダーは気付いていないし、この話はまだ延々に続くのだろう。そう、二度目のため息にも彼は気付かない。
テイラーは仕方なしにちらりと手元でモバイルを探る。NYに住んでいる友人に声をかけてここから離脱してもいいのだけれど、もう少し辛抱すべきだろうか。今日に限って誰からのテキストも入っていない。誰かジムを紹介してくれるのなら、ビジターで使わせてもらいたいくらいだ。
「アレク?」
「ん?」
こんなだらしない笑顔は本当に久しぶりに見る。以前は自分に向けられたりしたこともあった表情だ。甘やかすのが好きなんだ、と言ってたっけ。
なるほどな。
「ちょっと用事が入った、また夜来るよ」
「へ?」
「エージェントに呼びだされた」
ごめんな、とテイラーはすまなそうに眉を寄せて笑うと、床に転がっているアレクサンダーの近くにしゃがみ額にキスを落とした。
「テイ?」
それは少し、珍しいことだった。こんな状態のアレクサンダーがそれに気付くくらいには。でもすぐに態勢を整えることはできなかったのだろう、不思議顔で見送ってくるのにテイラーはもう一度口角を上げて笑みのようなものを返すと手を振って、そのまま部屋を出た。
エレベーターに直結している部屋はこんな時に便利だ、すぐにすぐ追いかけて来られない。
「はあ……」
何やってるんだか、と重たいため息をついたテイラーは一度ぎゅっと目を閉じる。腹が立つというよりずっと苦しいのは自己嫌悪だ。いつだって無条件に歓待してもらえる、喜んでもらえると思っていた自分の甘えが間抜け過ぎたし、甘やかされてかわいがられることをどこかで疎んでいたはずなのに永遠にそれが続くと思っていたようなところも、酷い。
何様だ、と自分を叱りつけたくなってしまって、顔や態度に出る前に逃げてしまったというわけだ。用事なんてないし、エージェントは今自分がNYにいることも知らないはずだ。
誰かいないかな、と連絡先をスクロールするが「急にどうしたんだ?」という問いに答えられるはずもなく、仕方がなしにテイラーはどこか足取り重く、暇をつぶせる場所を探すべく、ちょうど前に来たタクシーを止めて、乗り込んだ。
*** *** ***
結局、どこに行くあてもなく、一応のため予約を入れておいたホテルのジムで汗を流し、小さなプールだったけれど一キロほど泳いで、サウナに入った。ほどよい疲れはストレスを忘れさせてくれたけれど、約束通りアレクサンダーの元を尋ねるのが億劫になってしまった。明日また彼は撮影に戻るだろうし、きっと朝一番にかわいい天使に会いにとんでいきたいはずだ。夜更かしするつもりもないだろう。
時計はすでに夜の八時。モバイルの電源は落としてある。
「……どうしよう……」
ここで電話をして、行けなくなったというべきか。
いっそ電源は落としたままで尋ねるという選択肢もある。
何も言わないで、そのままということも出来なくはない。
「……あー……」
濡れた髪のまま部屋をうろうろと歩き回っても仕方がないのはわかっているのだけれど、決断がつかないがそろそろタイムアップだ。テイラーはどうしようもなく気乗りしない中、モバイルの電源を入れた。
すぐに裏返しをして逃げ出したい気持ちをこらえ、しばらく待つ。
が、それは息を止めていても苦しくない程度の時間の間で十分だった。一気に流れこんでくるテキスト、ボイスメールの通知が画面を明滅させた。
「わあお……」
これは考えてなかったな、という量にテイラーは口元を手で覆う。最初は「どうした?」「本当に用事があったのか?」「怒ったのか?」という理由を尋ねるテキスト、それから「今どこにいる?」「迎えに行くから教えてくれ」「もう帰っちゃったのか?」「本当に来るのか?」という居場所を探るようなテキスト、後は愛してるだとか、許してくれだとか、そういうテキストが続いた。
たぶんボイスメールもそんな感じだろう。
うーん、そこまでの大事にするつもりはなかったのだけれど、とテイラーはまずは電話だ、と思ったその瞬間。
アレクサンダーからの着信があった。
「……ハロゥ?」
『テイテイ!?』
酷い声だ。すっぽ抜けてて、泣きそうに聞こえる上擦った声。
ああ、こんな声も久しぶりに聞いたなあ、と思うと胸が痛くなる。
「アレク?えっと、悪い……、電源切ってて……」
『……テイ?』
今どこ、何をしている、どうして出てった。
その問いのすべてが詰まった呼び掛けにテイラーは一度下唇を噛んで、それからため息をついた。
「今日はやっぱり行けない」
コンディションの合う時に、また仕切り直しをしよう。それがテイラーの出した決断だったが、
『嫌だ』
「え?」
『……嫌だ嫌だ嫌だ……!』
甘やかしたがりのアレクサンダーはタガが外れると逆にとんでもない甘えん坊になる。長男だからしっかりしなさいと言われていた反動だと言っていたが、次男三男からは抗議もあるらしい。
ともあれ、彼はこちらの声を聞いた瞬間に、駄々っ子になってしまったようだ。
うーん、とテイラーは考えこむが妙案があっての発言でもないので、すぐに言葉に詰まってしまう。
『どこにいるんだよ……』
「ホテルだよ……」
『誰と!?』
誰って……、とテイラーは小さく舌打ちをする。信用のなさを嘆くではないが、即応されると腹が立つ。元々はおまえがほったらかしにしたからじゃないか!とでもわめけば彼に伝わるのだろうか?
いや、自惚れていたのは自分だ。
それはアレクサンダーには関係のないことで。
「……わかった、行くよ……」
『……電源は切らないでくれ……』
「オーケイ」
はあ……とため息を残し、テイラーは電話を切り、濡れた髪のまま出かけることにしたのだけれど、また邪推されるのかと思うと自然に頬がふくれてくる。一発ぐらいひっぱたいてやってもいいかもしれない、と思いながらテイラーはエレベーターホールへと向かった。
*** *** ***
髪はまだ生乾きだった。それを見た瞬間のアレクサンダーの表情は見なかったことにしたかったが(いもしない浮気相手を撃ち殺しに行きそうだった)、彼は何を思ったがドライヤーを持ってきて乾かしてやると言い出した。抵抗してもろくなことがなさそうなので、テイラーは促されるままにソファに座り、アレクサンダーの好きなようにさせた。
深く座り、指先で頭皮をかきまぜられているとゆっくりと瞼が落ちてくる。ほっとしたわけではないが、運動の疲れがじわじわ出てきたようだ。生え際やこめかみに時折押し当てられる唇が態度よりもずっと遠慮している風なのが気になったが、建設的な会話をするのも億劫でされるがままになる。
もう乾いたろう、というぐらいの時間が経っていたがアレクサンダーはテイラーの髪を撫でるのをやめなかった。
時折ひきつられる感覚に、何かをやろうとしているのはわかったが、それも咎めることはしない。少なくとも今は彼の視線はこちらにむいているのだ、むくれる必要もない。
単純なところで機嫌が落ち着いてきてしまうのが良いことなのかどうなのかはわからないが、少しずつ肩の力も全身に走っていた緊張感のようなものもほぐれていくのがわかり、思わず口元がふっと緩んだ。
「アレク……」
それから、ゆっくりと目を開けて少し頭を動かした。
「俺は別に、怒ったりしたわけじゃなくて……」
だから謝らないで欲しいと言おうとしたが、存外真剣な視線がそこにあったのでテイラーは一度言葉を切り、ゆっくりと息を吐き、ゆるく頭を振った。
「タイミングが悪かったな、と……思ってさ。喧嘩とかしたい気分でもなかったし……」
「け、喧嘩?」
慌てた声を上げたアレクサンダーは長い足でソファをまたぎ、テイラーの正面に回る。そして両の膝をがしっと掴み、じっとこちらを見る。
「……テイ?」
そこにあったのは心底不思議そうな顔、焦りも見える。もしかすると、本当になぜ出てってしまったのか理由がわからなかったのかもしれない。
ええと。
だとしたら、何と言えばいいのか。
「アレク……」
テイラーは唇を舐めて、それからふーっと嘆息に聞こえないように気をつけながら息をつく。
「ん……?」
「リボンをありがとう」
どうやらアレクサンダーは少女にしたようにしてくれたらしい。視界の端に入るリボンの色はエメラルドグリーンだ。二つにわけて耳の後ろあたりで結ったのか、長い髪が好きらしい彼ならではなのだろう。まあ似合っているとは思えないが、彼の目には疑問符とこちらを愛でたいという気持ちの両方が映っていて、なんだか脱力してしまった。
「俺のこと嫌いになったのかと……」
そんな泣きそうな声を出すなよ、とアレクサンダーの頬を指の背で撫でてやりながらテイラーは笑う。でもキスをして出ていったのにそんな風に思われていたのは心外だけれど。
日頃の行いかなあ。
テイラーはそう呟いて、目の前のアレクサンダーの額に自分のそれをぶつけた。そして、首の後ろに腕を回した。
「……俺のかわいい、うさぎちゃん……」
「それなあ……」
いつもはスウェーデン語なのに、と続けると「嫌いにならないで」と返される。
「なると思うのか?」
「わからない……でもならないで欲しい」
あんなにプリンセスにご執心だったのに、と笑うと苦い顔になる。やきもちを焼いたとも思われていないようで、何だか本当に自分が大間抜けな気がしてくる。
きちんと言葉にした方がいいときもあるっていうことか。
テイラーは大きく息をついた。
「アレクが俺のことを見なかった。俺に言ったように俺じゃない人のことを褒めた。あんな声、久しぶりに聞いた……」
「……テイラー」
考えもしなかった、とアレクサンダーが目を大きく見開く。
「俺が逃げたのは、今までそれを当然と思ってたからだよ、間抜けだと思ってさ」
「テイ……」
「気恥ずかしくなったんだよ。俺は何にも……アレクにしてないのにな?」
たまに電話をして、テキストを送り合って、会えばキスをして一緒のベッドに寝る。それだけのことでどうやって特別になろうとしていたのか、冷静になって考えてみれば虫が良すぎる。
そう思ったんだけど。
「……してくれてる……」
アレクサンダーはくしゃりと笑って、鼻先にキスをくれる。何を?と言う問いにも、じっとその青い目でこちらを見つめてくるだけだ。
テイラーはそれをしっかりと受け止め、同じように見つめ返す。沈黙は流れ、その間にキスを三回。テイラーは観念したようにひとつ頷いて、そうだな、と呟いた。
「……じゃあ、もう疑うなよ?」
「はじめから疑ってない」
心外だ、と言わんばかりのアレクサンダーは次の瞬間、悪戯っ子のような表情で笑い、少し胸を張って言い放つ。
「信じてはいるけど、心が狭いんだよ」
「台無しだ」
それでもさ、と続く頬へのキスにテイラーは腕に力をこめて、彼の体を抱きしめる。腹が減ったな、とか、明日の朝は何時に起きる予定なのか、気になることはいくらもあったが今はとりあえず何も考えずに無駄にした半日分、甘やかしてもらおうと決めたのだ。
そのためなら、頭のリボンのことにも目をつむろう。
「……愛してる……」
一番伝えたかった一言をようやく口にして、テイラーはゆっくり目を閉じた。
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ざっくりSS息抜きちゃん。
アレクのテンション上がった時の変な声がけっこう好きでね…紙一重で……