殺人課の仕事というのは昼も夜もなくなるぐらい多忙を極めることもあれば、日々の平和を神に感謝するしかないと思うほど、まったく仕事がない時がある。
そんな時は過去の未解決事件を振り返ったり、交通課などの別部署へ助っ人に出たりもする。
今日のテイラーはデスクの電話番だ。何か事件が起きるまでは退屈でしかない業務ではあったが、ローテーションで回ってくるのだから逃げようがない。明日まで何もなければ、久しぶりの制服パトロールが待っている。
火事からこっち、アレクサンダーの手による十分すぎる手料理や、ちょっとした店での外食が増えたこともあり、もしかするとサイズが合わなくなっているかもしれない。ロッカーに入れっぱなしの制服を着るのは、一年ぶりだろうか?
「……何だ、今日も遅いのかー」
居眠りするわけにもいかず、テイラーは手慰みにモバイルで簡単なゲームをしていたのだけれど、そこへアレクサンダーからのテキストが入ってきた。
ここのところ、もう十日ぐらいになるだろうか、彼はほとんどの時間を大学の研究室で過ごしていた。こちらも事件はないし、彼の手を借りることもないから問題はなかったが、家には着替えとシャワーに帰ってくるだけで、床で仮眠を取ったなんていう話も聞いたので、少しだけ心配をしている。
論文がどうだとか、来月の学会の準備だとか、そういう理由は聞いていたけれど、あの日訪ねた時に見たウォッカの瓶がどうしても引っかかるのだ。
ストレスで深酒をする人間は多い。刑事などを続けていると、あちこちで見かけるものだから、余計に心配になるのかもしれないが。
多分。
アレクサンダーは本来、そうきれい好きでもないのだろう。散らかし放題でも、酒を飲みながら仕事をするのも、彼の中ではたいした問題ではないのかもしれない。
でも、それを彼はこちらには見せないようにしている。
だから、もうテイラーは彼の研究室の奥へ入ろうとはしないし、大学を訪ねても前と同じように外のベンチか食堂でランチを一緒にするだけだ。仮にかまわないよ、と言ってもきっと、少し冷たく見えることも見えるぐらいの、整った顔でこう言うに決まっている。
俺がいやなんだ、と。
(……最初に良い格好させすぎたなあ)
こちらもつい、頼りがいがあるものだから甘えてしまったのだけれど。しょうがない、末っ子というのはそういう風にできているのだ。わざとじゃない。
「……へえ」
テキストによると、研究室全体が追い込みに入っているようで、学生達の指導もしなくてはならないので二日ほど泊まり込むとのこと、よほどの難題でもない限り検死にも立ち会えない旨がずいぶんと事務的に書かれていた。
それに少しの引っかかりを覚えたのは、気のせいではないと思う。
一緒に暮らしはじめた直後なら、どんなことをしてでも一度は帰宅したはずだ。たかだかハグ一回のためだけに。テイラーとしても積極的にハグをしたいとかそういうことではなかったにしても、すっかり習慣にはなっていた。
ただ、彼の方に心境の変化があって、避けたい理由があるのだとしたらいつまでも甘えているわけにもいかないだろう。
あの日。
部屋を探していないと言ったら「それは良かった」そう言ったのはアレクサンダーの方だと言うのに。彼の本意が今の時点ではよくわからない。
テイラーは小さくため息をつくと、緩く頭を振った。
「参ったな……」
暇にしていると、つい余計なことを考えてしまう。溜まっていたはずの書類も後一通を残してすべてを開封、確認、処理済みだ。
この一通は、仕事に直接関係のあるものではなくて。
つまり、テイラー個人宛ての書類、火事の事後処理を任せていた組合の弁護士からの通知書だった。
これを開けてしまえば、これからの身の振り方をいっそう真剣に考えなければならないだろう。
たとえば、まとまった金額が下りるなら、あの家を出る理由ができてしまう。思ったより遅かったような、まだ早いような、微妙なところだがきっかけにはなる。
もし、特別に保険が下りないというのなら、アレクサンダーとの「付き合い方」の線引きのようなものを、じっくり検討し直さないといけない気がする。
知らない、わからないの鈍感でいるか。
気がついた上で、美味く対処するか。
もう少し本音のところで関わっていうか。
いくら考えても、いくら分岐点があっても、一つとしてはっきりとした結論が出ない問題ばかりだ。
ライアンは「おまえがどうしたいかだろう?人のせいにするな」と言うけれど(彼の言うことはだいたい正しい)(悔しいとは思っている)そんな単純な問題ではないのだ。
原因は自分にあるとしても。
人が持つ「好意」というのものを多少甘く見ていたことについては反省している。
(してるってば……)
テイラーは誰もいないオフィスでぷくっと頬をふくらませて見せた後、意を決して通知書の封を開けた。
「……うわあ……」
その結果は本来なら、最高に喜ぶべきものだった。すぐにも家財一式揃えて新しいフラット(もちろん車庫付き)に引っ越せる額が出るという。どうせ組合の弁護士なんて大したことないんだろうと思っていたが、前言撤回、かなりの腕じゃないか。
ドーナツ程度の差し入れでは足りないな。
だけど、だけど。
「……どうしたものかなぁ……」
テイラーはテキストの返事をしてから中身を確認すれば良かったと後悔しつつ、手の中でモバイルをくるりと回す。
『あまりムリするなよ?差し入れならいつでもデリバリーするからな!』
それから、当たり障りないようで、少し期待を持たせてしまうようなフレーズを息をするように自然に指が弾いてしまった。
彼からの返事はたいてい三分以内。一時間も遅れた時は彼の方が変に落ち込んでしまって、どう声をかけていいかわからなかった。ないがしろにするつもりはなかったと言われても、こちらとしては「何を言ってるんだ?」ということしかできない。
彼が一度だって、自分を邪険にしたことはない。
そんなことはテイラー自身が一番よく知っていることだった。
しかし、今日はきっかり十五分経ったタイミングで返事が来た。やはりどこか距離を測られている気がしてならない。
『ありがとう、頑張れそうだ』
この模範解答では、くだらないテキストの応酬もできない。仕方なしにテイラーは絵文字を一つだけ送ることにした。ハートやキスマークを送るわけにもいかないので、面白くも何ともない「ガッツポーズ」にその大役を押しつけたのだ。
男相手に絵文字も何もないと思うけれど、無関心ではないのだということを何となく伝えておきたかった。
「……あー……何やってんだか……」
事件が起きろという不謹慎は言わないまでも、誰かが悩み相談にでも来ればいい。そんなことを考えなら、テイラーはモバイルを引き出しに、組合からの通知書と一緒に押し込んだ。
通報が転送されるのは、このデスクの古い電話なのだから。
こいつともうしばらくにらみあいを続けよう。あれこれを決定付けてしまうには、まだまだ考える時間が必要だと、そう思った。
*** *** ***
「ヘイ……大丈夫か……?」
シャワーも浴びて、食事も済ませ、スポーツニュースのはしごも終わったからそろそろ寝るか、なんて考えていたところに車のエンジンが聞こえたので、玄関に向かった。
言い訳をしなくても、理由はそれだけだ。
誰だって同居人であり家主が帰宅すれば出迎えるだろう、よほどドライなルームシェア関係でもない限り。
「……アレク?」
結局、二日の泊まり込み予定が四日目に入っていて、いよいよ心配になっていたところだったということはもちろん考慮の範囲だった。何度か、様子を伺うテキストを送ってはみたけれど「オーケー」以上の情報は得られなかった。
しかし、これを見る限り、それはすべて嘘だったと言える。
「テイラー……」
目が合ったのは、ほんの数秒だった。体が傾いだ気がしたので、駆け寄り支えるように抱き留めた。家賃とも言える「いつものハグ」をしようとしたわけではなかったが、結果的にそんな感じになってしまう。
しかし、控えめながら必ず、しっかりと背中に回ってくる腕はだらりとその場に力なく下がっているだけだ。心音はやや早いような気がするが、呼吸は穏やか。
というか、これは。
(寝てるな……)
肩口にあごを乗せて、すっかり脱力してしまっているかのような頭は正直言ってずしりと重たい。しかし、少しも嫌だとは思えなくて、テイラーはそっと彼の束の間の眠りの邪魔をしないように、背中に手の平をそっと押し当てるようにして、支える。
このままこめかみや髪にキスをするのが流れだとも思ってしまう。だけれど、なぜ、彼に抱きしめられたりするのも、こんな風に彼を抱きしめているのが嫌ではないのか、その理由が言葉で表現できない。
優しくされた、というただそれだけだろうか?
それならスコットだって、まあ一応のところライアンだって、優しい。チャンドラー課長などはいつだって自分に甘い。
でもこの穏やかな呼吸を感じるのは本当に悪い気はしなくて、いつまでだってこうしてやりたいと思ってしまう。
そんなことを考えながら、なるべく穏やかに静かな呼吸を心がけながら先のことを考えようと思ったのだけれど、いつも以上にアレクサンダーの体温が高く感じられてままならない。
それからどれぐらいの時間が経ったのか、わからない。玄関には時計を置いていないのもあるが、それほど長い時間には感じられなかった。
もうしばらく、体全体にかかる重みを甘受しても良いと思っていたところで、アレクサンダーは目を覚ましたようだった。
びくっと体が震えたと思ったら、弾かれるように体を離した。軽く突き飛ばされるような格好になり、テイラーはよろめいたが、転びはしなかった。
ただ、不意に熱が奪われたせいで、寒さを感じてしまった。
「……えっと……」
何か言葉を探そうとしても、何を言えばいいかわからず、曖昧な笑顔を作ってアレクサンダーの目を見つめた。
「……おかえり」
アイスブルーの瞳には光がなく、瞬きも見えない。感情もなく、表情もなかった。疲れのせいだと思いたかったけれど、そうでもなさそうだ。
十秒、二十秒。
深呼吸を何回か繰り返した後で、アレクサンダーは生唾を飲み込んだのか、喉が動いたのがわからった。話し合いがどうという状況ではないのかもしれない。
嫌われたとは思わないけれど、最初から心配していた通りになってしまったのだろう。彼のストレスの要因になったのだとしたら、出て行くしかない。
大丈夫さ。
保険が降りた。
「……優しくしたくなかった……」
しばらくしてから、アレクサンダーが掠れた声で呟いた言葉がすべてだと思った。
「……そっか」
テイラーはさっきよりもう少しの努力を必要としながら、もう一度笑顔を作ってアレクサンダーに向ける。
客間の少しよれたシーツはもう自分のものといいう感じで(さすがにベッドメイクはやらせていなかった)、冷蔵庫を開けるのにも遠慮はなかった。
前の家ほどではないが居心地はかなり良かった。
しかし、この家でアレクサンダーの個性を感じたことはほとんどなかった。家族の写真も飾っていない、趣味のものも見当たらない。
研究所とは大違いだ。
だから、ここで起きたことや彼がしてくれたことが、まるで「なかったこと」にされてしまうような気がして、正直なところを言えばショックを感じている。
勝手に彼を利用しておいて、虫の良い話だから何も言えないが。
「じゃあ、俺はもう寝るよ。アレクも、早く休めよ?」
「……ああ」
おやすみ、と軽く手を振ってテイラーはまだ微動だにせずに立ち尽くしたままのアレクサンダーに背を向ける。
明日か明後日、彼の頭がはっきりしたところで話し合いというか、挨拶をして出て行こう。新しい家が見つかるまではブレイクにお願いして、しばらくの間置いてもらおう。彼女がOKなら、ライアンもOKだ。
最高に寝心地の良いベッドのマットレスともお別れだ。胸の痛みに顔をしかめながら、ごろりと転がって天井を睨みつける。
少しだけぼやけて見えるのは、涙が滲んでいるせいだとは思いたくない。まさかいい大人がこんなことでショックを受てべそをかくなんて、あれえないだろう。
だから、これはあくびか何かのせいだ。
「……俺が悪いのはわかってるさ……」
ライアンの家に行けば、合計して三時間ぐらいの説教を食らうのは間違いない。彼はきっと、こうなることを最初からわかっていただろうから。
はあ……、と深いため息をついたテイラーは天井に八つ当たりするのをやめて、ぎゅっと固く目をつむった。
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そろそろ!かな!