結局のところ、市警に吹き荒れたアレクサンダー旋風は未だに収まらない様子で、モルグの他の職員の機嫌がいまいち良くない。華やかな話題や雰囲気が署内で一番そぐわない場所ではないので当然だ。
その現状にアレクサンダー本人は気づいていないのか、淡々といつも通り大学とモルグを往復して多忙な日々を送っている。シャツのアイロンがけも、食事の支度も当然こなしながら。
隙を一つも見せない仕様にプログラミングされているアンドロイドだと言われたほうがまだ納得が行く。
そんな本人をよそにテイラーのところには電話番号を教えろだとか、恋人はいるのだとか、質問がひっきりなしに飛んで来るので少しばかり嫌気が差してきた。
それに答えようがなくてはぐらかしているうちに、少しずつ市警の中での女性人気のランキングが下がっているような気がするのだ。
だから、というか何というか、今のところテイラーはブレイクの「夕食会」に彼を誘えずにいる。あの時から少しだけ、目が合いずらいというか、ほんのかすかな動きなのだけれど、逸らされるせいもあって。
居心地が悪いとまではいかない、本当にささやかな違和感。一度アメリカで受けた研修で聞いたことがある「微表情」とか言うものに当たるのかもしれないが、隠されていると言われる本音は今のところまるで見通せない。
しかし、はっきりしないとは言え、違和感を感じている以上このままにしておくというのはテイラーの気性に合わなかった。ライアンには散々鈍感だと言われたが、わからなければ聞けばいいのだから。
「ドクター?」
三度のノックの後、テイラーはその扉を開けた。法医学研究室の中の教授室がアレクサンダーの本当のオフィスだ。ここへ来たことは今まで数度あったが、だいたいが至急の用事で部屋の中をじっくりと見たことはほとんどなかった。
へえ、と返事よりも早くテイラーは周囲を見回した。
なんというか、一言で言えば意外。
とてもではないが、アレクサンダーの縄張りとは思えない部屋だった。本がうずたかく積まれているところも、ちょっと直視したくない感じの標本が無造作に並んでいるところも(ホーンテッド・ハウスみたいだ)、飲みかけのコーヒーのカップが三つ出しっ放しなのも、ブラインドが斜めになったそのままになっているところ、枚挙にいとまがないとはこのことだ。
ええと。
部屋、間違えたかな?
そう、テイラーが思わず首をひねってしまったのも無理はない。
「テ、テ、テイラー!?」
ガタンと大きな音を立てて立ち上がったのは、確かにアレクサンダー・スカルスガルド本人だ。ただし、プログラミングに不調を来しているのか、低く抑えるようにいていた声は裏返っていて、表情にも目に見えて焦りが現れている。
「ごめん、急に来たらまずかった?」
昨日というか今日、家に戻ったのは朝の五時だった。シャワーを浴びたところでアレクサンダーが起きてきて、食事はいらないと伝えてベッドにすぐ潜り込んだ。
それを見届けていたから、まさか昼前に、まさか職場を訪ねてくるとは思いもしなかったのだろう。
「そんなことはない、絶対に」
「良かった」
動揺の中でもきっぱりとした答えにテイラーは破顔して、ヘイ、軽く拳を作ってアレクサンダーの肩口をパンチする。仲間内ではよくやることだったが、彼に対しては初めてして見せる。
「ふむ」
しかし、反応はいまいちだ。棒立ちのまま、アレクサンダーは目を大きく見開いただけだった。
テイラーはこれは二度としない、と脳内のメモに書き付けて、次のミッションに取りかかる。込み入った話になるとは思わないが、できれば打ち解けた感じで話しておきたい。
何も深刻な問題ではない、はずだ。ただ、どうして今までと態度を少し変えたのかが知りたいだけで。
あの時、自分の表情が彼を傷付けたのだとしたら謝っておきたい。
あんな顔をしてしまった理由はまだ、自分の中ではっきりはしていないのだけれど。
人気ランキングで負けてしまったことが理由でないことだけは確かだ。
「ランチタイムはいつから?終わるまで待ってるよ」
ここで、と言ったものの腰をかけるような余計なスペ―スはどこにも見当たらない。論文のゲラのようなものが床に散らばっているようだけど、これは拾い集めた方がいいのだろうか。
まだただの一度も入ったことも、覗いたこともないアレクサンダーの私室(というか書斎だろう、ベッドルームは別にある)もこんな感じなんだろうか?
「すぐに出られる」
「ホントに?」
ここから追い出したいの間違いじゃないのか?相手がライアンだったらすぐに言い返したところだけれど、ぐっとこらえて笑顔を返すに留める。
いいな、テイラー。
今日の目的は話し合いだ。
ものすごい勢いで引き出しに突っ込んだのはウォッカの瓶に見えたけど、家宅捜査ではないから見逃しておこう。
そういえば、家ではほとんど酒を飲んでいるのを見たことがなかったけれど(夕飯の時にビールを一本、ワインを一杯程度飲むぐらいだった)、若くして教授職についている気苦労もあるのだろう。
でも、ウォッカは少し心配だな。
もう少しだけ仲良くなれそうなら、聞いてみよう。それから少し気をつけて様子を見ておこうかな。こっそり、気付かれないように。
「実はさ」
やや追い立てられるように研究室を出たところで、テイラーは後ろを振り返った。家を出る時と帰ってくる時、ほとんど乱れのない格好をしていると不思議で仕方がなかったけど、今日ついに真実を知ることが出来た。
整えてから帰ってきているのだということ。
それだけ、自分に「完璧」なところを見せたいのだということ。
少しばかりの隠し事があるのだということ、だ。
びしっと決めたヘアスタイルも悪くないけど、今みたいに前髪が半分下りているのも自然体でいいと思う。
ええと、これもまだ言わない方がいいな。
テイラーはまるで取り調べの時のように、言葉を探しながら間合いを少しだけ詰める。これは仕事場でのドクターと刑事の距離ではなく、家にいる時の家主と居候の距離だ。気持ち的はもう半歩ほど、近い。
「作ってきたんだ」
サンドイッチ、と背負ったデイパックから紙袋を取り出す。
「……!」
アレクサンダーはそれを見せた瞬間、動きを止め、再び目を大きく見開いてこちらをじっと見つめた。うっすらと開かれた唇がかすかに震えているように見えるのは気のせいではない。
職業柄、表情を読むのは癖のようなもので、だから毎日完璧を装う彼のことが気にかかっていた。ストレスも感じるだろうし、信頼されていないようで寂しさも感じつつあった。
押しかけ居候だけれど、ひとを見る目はそこそこある方だ。家でくつろいでいても、部屋を散らかしがちだったとしても、酔ってソファや床で寝入ってしまっていても、呆れたりはしないのに。
「コーヒー買って来てよ。あ、俺は」
「カフェラテ?」
「あ、うん。そう、カフェラテ」
あそこのベンチにいるからさ、と言うとアレクサンダーは長い手足が絡まって転んでしまうんじゃないか?と心配になるぐらいぎくしゃくとした動きで、別棟へと向かった。
「うーーん……、ここまで動揺されると話どころじゃないかもな……」
テイラーはため息をついてベンチに腰かけた。勤勉な学生が多いキャンパスなのか、とても穏やかで静かだ。緑もいっぱいで、道も広く、名門の雰囲気と環境の良さを感じることができる。
パトランプを光らせて駆けつけるばかりではもったいない場所だ。そういう話からすればいいのか、それともいきなり本題に入ればいいのか、と考えはじめたところでアレクサンダーが戻ってきた。
「適当に作ったやつだけど、まあ、食えると思う」
「ありがとう」
借りが溜まっているからなという返事は、たぶんNG。
気が向いたから、というのも何だか素っ気ないし、妙に気を引いているようにも聞こえそうだ。
だとしたら、これしかない。
「めしあがれ」
それから、少し不格好なウィンク。
お、これは正解のようだ。白い肌が少しずつ紅潮していくのがわかったので、テイラーはそれを目の端に入れながら、自分の分のサンドイッチに勢いよくかぶりついた。
誰が作っても同じ味になるような、ターキーハム、チーズ、レタス、エッグサラダのサンドイッチだが、晴れた空の下で食べると気分のせいか、美味しく感じる。それはわかるが、アレクサンダーの表情を盗み見ると、自分の作ったそれがミシュラン三つ星を獲得したのかと思えてしまう。
それはけして嬉しいことではない、そのことをどうやって伝えればいいのだろう。
確かに。
確かに自分は彼の好意を利用しているのだけれど。
「あのさ、アレク」
「……」
「あーー、だから、さ。そう身構えないでくれよ、頼むから」
イージー、イージー。
ぺろりとサンドイッチを食べ終えたテイラーはカフェラテを半分ぐらい一気に飲んだ後、片方の手の平を見せてアレクサンダーを牽制する。
「俺が明日死ぬってなら、わかるけどさ」
スマイルにしても、ハグにしても、会話、食事の時間、おはようとおやすみの挨拶。アレクサンダーの中でどういう思考回路になっているのかはわからないが、いちいち「これがラストだ」と覚悟しているように思えてならないのだ。
特に、あの日以来。
目を逸らすのも、現実から逃避したい気持ちの表れのように、テイラーには見えた。良い格好ばかりしたがるところも、それが理由なのだろうと。
たった一度のミスで嫌われる、とでも思っているのだろう。
「隠し事をするなとかは言わないし、アレクの自由なんだけど、さ?」
彼の目はこちらをしっかり見ていた。出会った時からこの視線だけはまっすぐ、ぶれることがなかったから、これで安心して話すことができる。
テイラーも人の顔はまっすぐに直視するタイプだから、こっちの方がずっと安心して心を開けるし、おしゃべりも出来る。
「俺のせいでストレスを感じて欲しくないんだ……。俺が来る前と同じ生活をして欲しい」
あと、普通の声で話せよ。
たまには外に飲みに行こうぜ?
それから、ええと。
部屋を散らかしたら俺が片付けてもいいんだし。
「こないだの、あれはさ」
かすかにアレクサンダーの肩が震えた。双方心当たりあり、というわけだ。
「何ていうか、その……ちょっと優越感があったんだよ。俺だけが知っている、っていうかさ」
俺の頼みなら何でも聞くドクター。
身も蓋もなく言えばそんなところだ。ハンサムなのも知っているし、優秀なのも知っている。
だから、な?
わかるだろ?
「……なんだよ、嬉しそうだな……」
感情プログラムが唐突にインストールされたのか、あの日オフィスフロアで見せたとびきりのスマイルより、もう少しばかり崩れた(というか、だらしない)笑顔だ。
「だから、あんまり気にするなって話!OK?」
「了解、ディテクティブ」
「声も作るなって」
「Ughhhh」
ははは、そういうのも出来るんだな、とうなる喉に声を立てて笑うと、軽く肩で隣の肩を小突いた。
同じように返ってきたので、このじゃれ合いはOKということになる。
了解、ドクター。
ご機嫌になって良かった。
「テイラー」
「ん?」
残りのカフェラテを飲んでしまおうとストローに口をつけたところで、作っていない少し高めのトーンの声で名を呼ばれる。
「わざわざ……来てくれたのは……」
「そ、アレクと話をしたかったから」
意外に時間は合わないのだ。こちらも夜勤はあるし、事件に取りかかると二、三日着替えとシャワーのためだけに家に戻るなんてこともざらだ。
仕事場で顔を合わせた時に、こんな話ができるわけもなく、ほんの些細な違和感が大きくなるのを恐れた。束の間の(というにはすでにかなりの時間が過ぎているが)同居関係とは言え、良好であるに越したことはない。
と、テイラーは考えていたのだが、彼のまっすぐな視線に宿る光の意味を忘れたわけではない。
ストローが口から離れ、テイラーは少しずつアレクサンダーの顔がこちらに近づいてきていることに気付きながら、思わず、唇を舐めてしまった。
瞬きも、二つほど。
「……ありがとう」
キスされる、と確信したところで、アレクサンダーの顔は離れて行った。もう少しあごを高く上げれば、間違いなく唇は触れていた。
まずい。
そう思ったのは、キスしてしまいそうだったからなのか、キスをしてはいけないと感じたからなのか、わからない。
「テイラー」
「うん」
危ないところだった、と言うようにアレクサンダーの方が先に肩をすくめて戯けたので、テイラーも少々行儀の悪い音を立ててカフェラテを飲み切った。
今日のところは、ここまで?
次の機会があるのか、ないのか、テイラーが決めることではない。
「部屋、探してないんじゃないか?」
今まで見たことのない、光が目に宿っていた。自我のある、人間らしい光だ。
「……探してない」
居心地の良さが、アレクサンダーの努力によって作られているのはわかっている。
だから、これからどうなるか、だと思うのだけど、どうだろう。
「それは良かった」
アレクサンダーは目を細め、それからゆるく頭を横に振った。もう少し、上手くやれると思ってたんだけどな、とかすかに続いた声にテイラーは眉をひょいと上げて答える。
全部が作り物だとは思わない。モルグで抱きしめられた時とか、弟として見れないと言われた時、あれを茶化すことは絶対にしない。
だけど、もう少し、肩の力を抜いて欲しい、それだけだ。
「あのさ、俺って鈍感?」
だと、思う?
学生たちの笑い声を挟んで、少しの沈黙が流れたが、アレクサンダーはその問いにこう返した。
「優しいよ」
その答えは欲しかったそれではなかったけれど、アレクサンダーの目がやはりこっちをまっすぐ見ていたので、オーケイと呟くに留めた。
「じゃ、そろそろ帰るよ」
帰って昼寝だ、と呟いたテイラーにアレクサンダーは何も言わなかった。
ただ、まっすぐな視線がそこにあるだけ。
(鈍感なもんか……)
テイラーもそれに片頬を上げた笑みを返すと、手を振って愛車の元へと歩いて行った。たぶん、夕方には夕食の誘いがテキストで届いて、イエールタウンへ向かうことになるんだと思う。
夕食会の話はもう少し先に延ばそう。
まだ、少し、手探りの間柄だから、お互いに。
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小悪魔感、もうちょい欲しい。